三ツ橋大輔
1971.11.29生まれ
いのちのおやさい農園主
「どうして?」
いまでも思い出せるもっとも古い記憶は幼稚園に入ったころのことです。
毎朝幼稚園バスに乗って幼稚園に行くと先生がいてたくさんの園児がいました。
工作や音楽などいろいろなことをやって園庭で遊んで家に帰ってご飯食べて寝ました。
毎日の繰り返しの中でわからないことや窮屈に感じることがいっぱいありました。
「どうしてもっと絵を描きたいのに時間がきたらやめなくちゃいけないんだろう」
「どうして飲み込んじゃいけないもので歯を磨くんだろう?」
「どうして食べられないもので食器を洗うんだろう?」
わからないことや窮屈なことがいっぱいあるまま小学生になりました。
育ったところは大きな団地群で団地のなかには芝生がひろがり、そこををぬけると大きな川や田んぼや沼など自然の中で遊べる場所がいっぱいありました。
学校が終わるとひとりで芝生の上をブツブツ言いながら下校しました。
ひとりで遊びに行けるようになるといつもひとりで沼や田んぼに行って遊びました。
古い日記を読み返してみると毎日ひみつの場所でザリガニとりとおたまじゃくしとりを繰り返していました。
人間のともだちはいなくて虫や木がともだちでした。
小さな虫はもちろん木も鉛筆も自転車もすべての物にいのちが宿っていました。
自然はいつもキラキラ光っていて毎日暗くなるまで遊んでいました。
10才の頃、都会に引っ越すことになりそれまで当たり前にあった自然の中の遊び場がなくなってしまいました。
眠れなくなって色々なことがとても心配な状態に変わっていきました。
あまりいい精神状態ではないまま中学、高校、大学へと進みました。
この頃のことは正直あまり覚えていません。
子どもの頃から泳ぐのが好きで部活も水泳部に入り、泳いでいる時だけが自由でいられました。
学生を終えるとそのまま社会に出ました。
始めは外で働ける仕事を求めて建設工事の現場監督になりました。
初めての工事現場に入ったとき地下二階分の深さまで大きく掘られた地面の穴に地球の痛みを感じ、ショックを受けたのが第一印象でした。
使用される建材は化学的に合成されたものばかりで人間が生きる時間軸では自然に還らないものがほぼすべてでした。
建設ラッシュで高層マンションが次々と建てられる時代でした。
これを続けてどんどん作り上げた末、一体地球はどうなってしまうのか?
過酷な現場仕事の中ではそのような感覚を麻痺させなければ仕事を続けることができない状態でした。
見ないように考えないようにしても、心の奥底では常に地球の痛みを感じていました。
社会に出て人間社会と自然界が大きく切り離されていることをはっきりと実感しました。
そんな生活に耐えきれなくなり、いったん日本の社会から離れ学生時代に訪れて印象的だったタイに渡りました。
タイの中でももっと自然の深いところを求めて北部山岳民族、カレン族のコミュニティーに滞在しました。
そこでは自然と人が身近に暮らす姿を目の当たりのして貴重な食文化にも触れることができました。
カレン民族のお母さんの家庭料理を手伝いながら料理を教わる
高床式の住居の下を駆け回る茶色い羽根の鶏、お家のすぐ隣にある畑で育つ色濃いお野菜、道路脇の木にたわわに実る南国の果物は初めて目にするものばかりでした。
村によってはガス・電気・水道がまったく通っていませんでした。
便利なものは何もなくても、食べものは豊富で人は穏やかで「本当の豊かさとは何だろう?」と考えさせられました。
山から離れるとバンコクに戻り外国人向けのムエタイジムで修行をしました。
そこでトレーナーの一人に素質を見込まれプロの道へとスカウトされ東北地方の自宅ジムへ招かれました。
20代、バンコクにあるジッティージムにてトレーニング風景
そこでは三度の食事とトレーニングを繰り返すだけのシンプルな暮らしでした。
トレーナーが毎回タイの家庭料理を作ってくれました。
ある日、放し飼いだった鶏を目の前で絞めて朝ごはんを作ってくれました。
鶏とタイの野菜を塩コショウで味付けしただけのスープでしたが、それを口にした瞬間のことは忘れることが出来ません。
それまで食べていた鶏肉とはまるで別物でした。
生まれて初めて舌ではなく全身で「おいしい」と感じました。
力強くてスッキリして香りや味わい旨味に甘み、言い表すのが難しいですが、それでも言葉すると「いのちのあじ」がしました。
あのときの衝撃は今でもはっきり覚えています。
そんな感動している僕の傍ら、トレーナーはあたりまえのご飯を作っただけという様子でした。
その時子どもの頃、料理人になりたかったことを思い出しました。
日本に戻り30才。
憧れであった中華料理の世界に飛び込みました。
料理人としてはあまりにも遅いスタートでしたが運よく仕事を始められました。
本当の美味しいを作り出すすんだ!という志がありました。
32才の頃、鍋を教わった顧さんと記念撮影
高級料理ではなく大衆料理を目指し、横浜の超人気店にて見習いからスタート。
料理人としてスープとりから仕込み、調理、片づけなどたくさんのことを学びながら、本当の美味しさをストイックに追い求めました。
見習い時代、前菜で創作した合わせ調味料の味を総責任者に見込まれ、異例のスピードで砧板(まな板)を経て鍋のポジションに抜擢されました。
厨房内は全員が中国人厨師(調理師)だったため発注業務やシフト管理まで管理業務も併せて行う調理場責任者も同時に担っていました。
多くの食材を扱う中でお野菜や海鮮物や精肉などはいつ注文しても当たり前に届き、同じような大きさ形できれいに箱に詰まっていました。
食材の品質は形が揃っているか、大きいか、希少か、季節的に珍しいかなどの基準で計られていました。
「どうして自然由来の食材がまるで工場製品の様に届くのだろう?」
「どうして夏のトマトは価値があるのだろう?」
「どうしてフカヒレは高級として扱われるのだろう?」
子どもの頃の様な疑問がいっぱい沸きましたが、それは見ないことにして朝から晩まで1日100食以上は鍋を振るう日々を送りました。
ある日、心の支えにしていた総責任者が移動となり、急にスイッチが切れたようになりました。
すこし落ち着くと「お店で提供する美味しい料理」と「本当の美味しい」との違いにどうしても埋まらない溝を感じました。
厨房に運ばれてくる食材をじっと見つめながら思いました。
「どんなところでどうやって作られているんだろう?」
「どんな人がつくっているんだろう?」
「ここまでどうやって運ばれてきたのだろう?」
「タイの時の鶏肉とはだいぶ違いそうだな、、、」
「ほんとうの美味しい」を求めた飲食の世界で限界を感じていました。
大地と食がどこかで切り離されていて繋がりが見えませんでした。
「ほんとうの美味しい」は厨房の向こうの見えていないところからはじまっているのだろうと感じていました。
食の世界を離れてまた何をしていいか分からず、再び現場監督に戻り日々の生活を送っていました。
さまざまな違和感の中で生きていたので、精神状態を大きく崩しました。
「どうしてこんなに辛いんだろう?」
「どうして生まれてきたんだろう」
「このまま死にたくないな」
いろいろな思いがわきあがり2012年秋に「人生を変える」と決断しました。
40才の時です。
木をぼーっと眺めていました。
木には花が咲いていました。
それが実になる姿を見て気づきました。
「一粒の種からたくさん増える」
実の中にはたくさんの種があります。
その種は土に落ちて芽を出します。
大きく育ちたくさんの花をつけまた無数の種を作ります。
永遠に繰り返される自然のサイクル。
増える一方でとても豊かな世界。
「なのにどうして社会ではたくさんの問題があり争いや貧困が絶えないのだろう?」
ちょうどこのころオーガニックやナチュラルという分野が少しずつ社会に浸透し始めた頃でした。
ある日オーガニックマルシェを訪れたとき出店していた有機野菜のブースに目が留まりました。
販売していた人は家業が農家ではないけれど農業をして、育てたお野菜を売っていました。
農家でなくても農業が始められることをはじめて知り驚きました。
なんかいいな、素敵な仕事だな、やってみたいなと騒然と思いました。
とても興味をもっていろいろな話を聞き、畑にも遊びに行かせてもらう約束をしました。
後日、その人の畑を訪れました。
畑は菜の花がいっぱい咲いて大きな木が一本あり、その下でたくさんの種類のお野菜が育っていました。
すごくきれいで太陽の光がまぶしくて空が広くて空気がキレイでした。
子どもの頃にあった景色が目の前に広がっていました。
「ここにいたいな」
「ここしか生きれる場所がないな」
「この仕事がしたいな」
そのあと仕事を手伝いました。
クワで耕してお野菜の種をまくところの土を柔らかくしました。
帰る頃には気持ちが変わっていました。
「この仕事をしよう!!」
衝動に突き動かされて農の世界へ進むことを決意していました。
「自然界と人間社会との隔たりを結ぶ接点が農業にはあるはずだ!」
そんな直感的な想いもありました。
すぐに働いていた会社の社長に事情を話し農業の道へと進みました。
2014年から2年間は地元の有機農家さんで農業の研修をしました。
有機農業というやり方を学びながら、もっと自然に野菜を育てる方法はないか?といつも考えていました。
ちょうど研修を始めると同時に畑を借りることができ、そこで自然農法を実践しました。
研修を終えて2016年から本格的に農業者として農業を始めました。
農園をはじめて当初の5年間は思い描いていたように自然農法の在り方でお野菜を育てていました。
福岡正信さんに憧れて不耕起栽培、農薬不使用、肥料不使用、無除草を貫きました。
不耕起とは機械で定期的に畑を耕さないこと。
自然農法は農薬も肥料も使用せず草も生えたままにする栽培方法で、日本の農業ではほとんど行われていないとても珍しい栽培方法になります。
まるで小さなジャングルのような畑で、お野菜の小さな種を一粒一粒手で蒔きました。
草一本までできる限りその場にある自然環境を壊さずお野菜の種を蒔いて育てました。
お野菜は育つものはものすごく育ちますが、育たないものはまったく育ちませんでした。
上手に栽培して収穫量を得るのではなく、自然界と野菜栽培をどこまで融合させられるか、毎日毎日朝早くから暗くなるまで身体ひとつで畑と向き合っている状態でした。
数年後に知ることになるのですがまわりで見ていた人たちから当時は「自然農野郎」と呼ばれていたそうです、笑。
「いのちのおやさい」というネーミングは開園から5年間の自然農法時代のある日、自然界よりインスピレーションを受けて名づけていました。
畑には草がたくさん生えて、テントウムシやクモやミミズ、バッタにコオロギにイモムシにアオムシ、蜂に蝶々や蛾やトンボ、鳥やモグラや野ウサギやリスなどの生き物がたくさんいました。
刈った草が枯れて土になっていく様子からカビや菌やバクテリアなどの目に見えない微生物の存在も感じとれました。
畑はたくさんの生き物が生息する命の宝庫でした。
お野菜はたくさんの命に囲まれて育っていました。
草の中で毎日少しずつ大きくなるお野菜の姿を見ているうちに、お野菜は自分が育てているのではなく地球が育ててくれていることを理解しました。
自分は種を蒔き、母なる地球が育ててくれるお野菜のお世話をしながら、お野菜をまるで自分と地球の間に生まれてくれる子どもたちの様に感じました。
毎日、畑で採れたお野菜を料理して食べまた畑に向かいました。
ある日気が付きました。
「食べたお野菜の命が自分の命にかわっている」
「その命で畑に向かいお野菜のお世話をする」
「またたくさんのお野菜の命が生まれて育つ」
「その命を食べて自らの命に変わる」
〝いのちの循環〟を体験しました。
毎日朝早くから暗くなるまで畑で過ごしいていたある日「いのちのおやさい」という言葉が口から溢れ出しました。
その反面、農業の世界も農薬や化学肥料、種の品種改良など地球に負荷のかかる栽培方法が慣習的に行われている事実にも直面しました。
開園から5年後の2020年。
自然の力を信じお野菜を栽培していましたがお野菜の成長や品質、食味が著しく悪化する経験をしました。
まったく育たず継続することが不可能な状態に陥りました。
お野菜が葉が黄色く小さなままだったり、枯れたり、虫に食べられて全滅したり何をしても育たちませんでした。
いくつかなんとか実ってくれたお野菜も形や食味がよくなく、味もえぐみやアクっぽさがありました。
「自然であればあるほどお野菜は元気に育つはず」
「自然に育ったお野菜の味は最高においしいはず」
信念のもと行ってきた畑が、それとは違う姿となりました。
同時に機械や資材を使わず、すべて身体ひとつで畑をやってきた疲労がたまり身体を大きく崩しました。
5年間、自然農法の在り方を軸に畑を作ってきましたが心身ともに限界でした。
畑に出ることもままならなくなって初めて考え方、やり方のすべてをやりなおすことに直面しそれはとても苦しい自分との向き合いになりました。
その頃、2016年のスタートからずっといのちのおやさいを食べている人との会話の中で大きなヒントをいただきました。
その方は登山やダイビングをされる方で、毎回農園のイベントで楽しんでいる姿を見て「畑は山や海とどう違うのですか?」とお尋ねしました。
「山や海は自然にあるものは一切動かさない、そういうルールだし、そういうものです」
「畑は人が自然に手を入れることが許されている唯一の場所だと思います」
それまではすべてが「いかに自然の邪魔をせずにお野菜を育てるか?」という意識でしたが、それが一瞬で払拭されました。
「おやさいは自然と人間が共同でつくりだすもの」
といった新たな意識が芽生え、ボロボロの状態から再スタートする気持ちがようやくまとまりました。
新たな方法はまず土、種、肥料の基礎事項を本で学び、その知識をもとに先輩や専門家の方から栽培について、種について、本当にいろいろなことを教わりながらすべてをやり直しました。
心身ともに限界で日常生活が送れなくなった時に波動共鳴療法のクリニックとの出会いがありました。
化学物質や大気汚染、電磁波や地磁場などの影響を受けている現在の地球の状態も知り、自然の力による昔ながらの方法だけでは栽培がとても難しいことも理解しました。
その後周波数の力を体験できた農園主はクリニックの協力を得て、課題のあった栽培に周波数を取り入れ「地球と調和する新たな農業」のスタートを切ることが出来ました。
周波数を栽培に取り入れることは実例が見られないので、トライアンドエラー、試行錯誤の繰り返しです。
それでも成長が改善するものが多く、品質や食味もかつてない程に良くなりました。
自身のカラダが生命力を取り戻し元気になったことが、お野菜にも起こるためにどの様な方法が効果的なのか?様々な方法を試しながら挑戦をしています。
今まで全く知らなかったことがあることに驚き、新たなことを知れることが喜びでした。
自然界の仕組みを科学的なアプローチから教えていただき取り入れて実践しています。
現在は手押しの耕運機やトラクターで耕運したり、信頼できる専門家の方の作る酵素培養液を散布したり、堆肥の使用、マルチや不織布、防虫ネットなどの資材も活用して行っています。
「お野菜が気持ちよく育つように」という想いで、知識をもとに自身の感覚を大切に仲間と共にお野菜を育ています。
自然ははじめから何も変わらず優しくて厳しくて楽しませてくれていろんなことを教えてくれます。
僕にとって農業はお野菜を育てて販売するだけでなくもっとたくさんのいろいろな大切なことを体験できること。
毎日、自然と関わりながら地球と仲良くいられる農業をして、元気になるアイテムを届けて、地球から学んだたくさんのことを伝えていきたいです。
この記事を書いている人
三ツ橋大輔
1971年神奈川県横浜市生まれ
いのちのおやさい農園主
【プロフィール】
大学卒業後、建築設備の現場監督や型枠大工など建築関係の職種に携わる。
初めての工事現場に入ったとき地下二階分の深さまで大きく掘られた地面の穴に地球の痛みを感じ、ショックを受ける。
その後一度日本を離れてアジアの旅に出る。
主にタイ北部の山岳民族の村に滞在し自然と調和した暮らしを経験する。
タイの田舎で目の前で〆たばかりの鶏肉を使った家庭料理を食べ、あまりの美味しさに感動し日本に帰り30歳から料理の世界に入る。
大衆料理を目指し、横浜で中華料理の超人気店にて見習いからスタートする。
見習い時代、前菜で創作した合わせ調味料の味を店舗の総責任者に見込まれ、異例のスピードで鍋のポジションに抜擢され1日100食以上の鍋を振るう日々を送る。
調理場の責任者となり発注業務を行いながら毎日納品される野菜、肉、魚などの生鮮食材がまるで工場製品の様に均一化されていることへの違和感を感じる。
同時に「目の前にある食材はいったいどこでどのようにして育ちどうやって厨房に届くのか?」に関心を持ち始める。
2012年に「人生を変える」と決意する。
2013年オーガニックマルシェにて出店していた新規就農者を通じて「農業」という仕事に出会う。
自然農法の畑を訪れその世界感に魅了され突き動かされる衝動により農の世界へ進むことを決意する。
2014年から2年間、有機農家にて研修する。
2016年『いのちのおやさいfarmette』開園。
2023年 仲間と共に新たに 『いのちのおやさい 』をスタート。